外輪(タイヤ) :聖霊で満たされる(聖霊充満)
また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。(エペソ5:18)
タイヤは、空気で満たされないと動けない。同じいうに、クリスチャンも聖霊に満たされないとクリスチャンらしく、働いたり、生きることができませえん。空気がいっぱい入って、やっとすらすら前に進める(従順)できあmすし、よっぽどの凸凹があっても走れます。すべてが恵みによって動くので、それは最高のクリスチャンとしての動きや姿を反映します。しかし、聖霊に満たされるためには、軸がしっかりし、4つのスポークがバランスよく働くときに、私たちは聖霊に満たされるのです。
外輪(タイヤ) : 従順で敬虔なクリスチャン生活
わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。(ヨハネ14:21)
ある一人がイエス様を受け入れるようになると、彼の人生には以前見られなかった変化が現れ始まります。喜びがあふれ、明るい性格に変わったり、前向きになったり、他人に無関心だった人が愛をもって仕えようとしたりします。また、罪におぼれ、非常に暗い生活を送っていた人が健全な生活に戻るようになります。聖書からの人生の意味を知るようになると、考えや価値観の変化も当然現れます。このように、一人の人生に清くて尊い、全知全能の神様がともにすることでその人の人生には数え切れない変化が訪れ、自然とその人から神様の姿が映るようになるのです
そういう意味では、私たちは神様の姿を反映する鏡であるとも言えます。鏡である私たちが清い生活をし、みことばや祈りなどを通して神様の力によって満たされているときは、私たちは神様の姿をありのまま表すようになります。そして多くの人々は私たちを通して神様の姿を見ることができ、自然と神様に興味を示すようになります。ところが、私たちが神様を信じるとは言え、実際の生活や言行などがクリスチャンらしくならなくなると、彼らはクリスチャンや神様を侮辱してしまうことになります。多くのノンクリスチャンは神を直接見ることができないので、いつもクリスチャンの姿を通して神様やキリスト教を判断してしまうからです。ですから、私たちはみことばの原理にしたがって、毎日を敬虔に生きるクリスチャンとして成長していく必要があります。車が走るときは、車のスポークや軸はあまり見えません。見えるのは外輪だけです。同じく、ノンクリスチャンや他人の目には神様やみことば、祈りなどは見えません。ただ見えるのは、外輪である私たちのクリスチャンとしての姿、つまり従順な生き方やクリスチャンとしての行動や生き方です。